昭和50年04月10日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」

 ここへは信心の稽古をしに来る所。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。ここにお参りの稽古じゃないのです。只参ってくる稽古じゃないんです。お参りをして来たら、今日はどういう稽古をさせてもらうか、どういうあり方を身につけさせて頂くかという事でなからなければいけない。よく参って来る。けれども御理解も何も頂かずに帰っていく人達がある。本当に惜しいですけれども。
 本当にここからほらほらと言うて呼び止めたい様な気がするけれども、神様はそういう人達には、そういう呼び止めてまでも、押し売りをなさろうとはしないですね。その辺の所が、どう言う様な事だろうかと思うのですけれども。それこそ抜けつ潜りつしてどういう端からでも、信心の稽古をさせて頂こう分からせて頂こうと。人が頂いておられる御教えを、後ろでじっと拝聴しながらそれを自分のものにする。
 お話を頂いておる人は、先生が話すから聞いとるようなもの。後ろの人の方が稽古になっとると言った様な場合もあります。だから勿論様々な事をを稽古させて貰わねばならんのですけれども。結局信心は有難うならせて頂く稽古だ。有難うならせて頂くと言う事は、自分の都合の良い時だけ有難いというのではなくて、いつでもどんな場合でもどんな時でも、お礼が言えれる様な心の状態になる事なのですから。広い範囲が信心又は深い高い高度な信心の稽古がなされなければならん。
 愈々豊かに大きくしかも限りなく美しゅうならせて貰おうという、そう言う所に焦点が置かれる。それが信心の稽古です。そこで稽古をして見ます。自分の心の中にある汚い心を、こんな事じゃいけないと思うて稽古をします。本当に自分の貧しい心狭い心、その証拠には一寸した事が苦になって。心配になって気になってたまらん。何と貧しい狭い心だろうかと気がつく。それでこんな事じゃいかん。こんな事じゃいかんという所で、心行がなされるわけです。そして稽古をさせて頂く。
 だからそういう一つの稽古を本気で今日の御教えに基づいてさせて頂く。何故今日の御教えに基づいてでなければいけないかと言うと、それが神様の御心だからなのです。私は信心が豊かになるとか広くなるとか、深くなるとか大きくなるとかと言う事はです。神様の御心を愈々広く深く高く解らせて頂くと言う事だと思うです。それが解って心行に取り組ませて貰う。自分の貧しさに気付く自分の信心の程度の浅さに気付く。
 ですから神様のお心の広さ深さ、高さ深さと言った様な所をわかる為に、御教えを頂かなきゃいけんのです。結局信心の稽古をさせて頂くと言う事は、自分が愈々解らせて貰うて、そして教えに基づいてわかる自分が、段々高度になって行く、段々広く深くなって行く。段々限りなく美しゅうなっていく事に焦点を置かせて頂いて、そこにはぁ自分も高められたなぁ自分も大分心が広うなったなぁ、本当にこういう深い事は解らなかったけれども、おかげで解らせて頂くようになったなと。
 解って行く楽しみが歓びが信心の稽古には必要です。そうでなかったら続きません。そういう稽古に取り組ませて頂きながらです。昨日の御理解の中にも、日田の井出さんではないですけれども、菊の花の信心を頂く事が目指しなのだけれども、まぁだ、あなたの場合は、菊は菊でも春菊だと。信心も分かって行き、菊の花の信心の喜びもある。又は食べねばならない。卑しい心を満たして行くというおかげもある。それに平衝して行かねばなりません。平衝して行くうちにです。
 信心の稽古が楽しゅう有難うなってくるとです。おかげはお取次を頂いてそして出て来た証拠とでも申しましょうか、そこを有難く頂いて行く事だ。限りないおかげに繋がっていく事も段々わかって行くと言う様な御理解でした。昨日そこん所を私は話ませんでしたけれども、春菊のお知らせを頂いて、次にほうれん草のお知らせを頂いたと、そう申しましたけれども、ほうれん草の説明をしませんでしたね。
 ほうれん草のお知らせは、愈々の時ポパイじゃないですけれども、ほうれん草は頂くたんべんに元気が出る、力が出るという。また私が成り行きを大切にさせて頂くという、一番始めに頂いた御教えもほうれん草でした。結局ほうれん草は力がつくというわけですけれども。ほうれん草と言う事は、教会に対する、親先生に対する憧念心だ言う事であります。教会に通うという事が楽しい。親先生のお取次を頂く事が、いよいよ有難い。そういう心が募り募って、ほうれん草である。
 私はあなたにホウレン草ち言うくらいな、いうなら一つの惚れ込みです。そこに私は素晴らしい尊いもの、有難いものの交流が出来て来るようになる。信心は本気で好きになる稽古です。信心が好きになる。教えを拝聴する事が有難い、楽しい。それを行の上に表して行くと言う事は愈々有難い。どこに焦点を置くかというと、自分の心というものに焦点を置く。そして様々の場合に自分の心が貧しいなぁ、自分の心が汚いなぁ自分の心の浅さに気がつかせて頂くから。
 そこん所を浅いなら深くなさせて頂く為に、小さいなら大きくならして頂く為に、汚いならば愈々美しゅうならせて頂く為に稽古をするのです。そこに心行があると言う事になります。まぁ綺麗好みの人があります。まぁ一杯散らかしとるですからそれが気になってたまらんから、ああ汚いこんなに汚してからと言う。そして言うた後に自分のこまさ、自分の貧しさを感ずる。そこに言わんで済むためには愈々心行が要る。その心行がたやすう有り難う出来る事の為に、神様の心が分からにゃいけんと言うのです。
 先日もお話しましたように、甘木の初代の御子息である所の、本郷の今の親先生が、親先生金光様の信心の、ぎりぎりの所はどこでしょうか。何でしょうかどこを有難く頂かせて頂かねばならんでしょうかと言うて、お尋ねになった時に暫く御祈念をなさって、お答えになった事がです。御神慮を悟ってその御神慮に添い奉る事だと教えられたと言う事です。ですから御神慮というのは、浅く見ればどんなにでも浅くなるし、深く頂けばどのようにでも深くなっ来るのです。
 ですから私共は、教えによって神様の心がわかる。昨日あたりの御理解を頂いておりますと、金光教の信心のお徳を受けて行く決定版と言う様な気が致しましたですね。昨日の様な御理解の所が、あれが楽しゅう身につけて行く事に精進したらそれが稽古です。苦しい締め上げられる様な時には、今こそ良い音色が出る事の為に、より有難い事を分からせて頂く為に、神様がこの苦しみを与えて下さってあるんだと思う時に、有難うなって来ると言う様なです。
 それをいろんな角度から頂いた訳ですけれども。結局御教えを頂くと言う事は、御神慮をわかると言う事です。御神慮です神様の心です。それを愈々深くそれを私自身が、深くなれば深い意味合いでの御理解を神様は下さるわけです。高められれば大変高度な御教えを下さるわけです。皆さんはそれに基づいて信心の稽古をして行かなければならん。愈々有難うならせて頂く稽古をせにゃいかん。
 昨日も申しました。私がたまたまここを整理しよったら、何年前のおかげの泉が出てきた。三十号でした。その中にこれは元旦祭の時のお説教が、そのままおかげの泉になっているのですけども。私がお話しておる中にお祭りが段々進められて神饌と言う事になる。そして一番初めに神饌のお鏡の上に、米袋が上げてあります。それが丁度私の前でパチッと音を立てて落ちた。散乱してしまうそこらいっぱい、だから手でだん拾われんから、箒を持って来んならん。塵取りを持って来んならん祭典中に。
 しかも元旦のいうなら皆が、縁起を自分で演出してからでも、有難い目出度い正月を頂こうと言うのにです。そう言う様な御無礼があった時にです。私の心の中に一つも障らなかった。という話がしてあります。その時に私が皆さんに是がもし、何年か前だったら大変な事だっただろうと。今年は碌な事はなか本当にあんただん何ちゅう事じゃったの。ようと確かめもせんなと言うて、それこそ神饌長は目から火が出るように、正月早々怒られんならん所であったろうし、自分で自分の心も正月早々汚さなきゃならなかっただろうけれども、汚すだんではない、有難い。というのは、その前日に、いつも御神米のお米が、元旦祭の時のお供えが、それに混ぜて御神米になるのです。
 ところが、前の日に、私はお知らせを頂いておりまして、今年は寒修行にお供えをした、神無水で洗ったお米を御神米にするという事を、久富先生に言うてあった。そう言う事もあっておったからでもありますけれども、神様の御都合だなと。いうならば、元日早々、私の心がこう言う事で、どの位乱れたり汚れたりするかと。乱れもしなけりゃ汚れもしない。勿論なんにもなかった様にして仕え終わる事が出来たと言った様な事が書いてあります。心の進展というのは大変な事なんです。
 そりゃ元日には、新しいタオルを前の晩から用意しとかんならんと言う様な心を使う。私がその辺の所が、どうでも良いという心の状態が開けておったと言う事。又最後の所に話ておるのが、その日装束をつけようと思うて、冠の箱を取り出した所が丁度○○さんの告別式があった時に、火葬祭の祝詞が出て来た冠の箱の中から。ははぁ本当に今年はそれはお祭りの始る前のですよ。まだ装束つける時ですからそう言う事があった。しかも冠の入れてある箱の中に、どうしてこんな祝詞が入れてあっただろうかと思う。
 それがしかも火葬場で奏上させて貰うお祝詞です。それを一通り読ませて頂いて、そしてその御霊様の事を、改めて祈ったと言う事が、この御理解に出ています。心の広がりというか心の深さというか、もう本当に限りがないものだと言う事であります。それから、三四年経っておりますから、その後の私の心の中には、もっとましな心が開けて来ておるでしょう。ああ縁起が悪かというたら縁起が悪いのです。
 その年に西脇殿の御造営が出来ておるのですから、悪か年じゃなか素晴らしいお年であったことが分ります。ですから私も真似してそげなふうに、いっちょそげん時にはそげな風に考えようと言うたって、心に感ずることなのですからどうにも出来ないです。それがいよいよ御神慮を深く、対しさせて貰う分からせて貰うて、御神慮にそいたてまつる生き方を、日常しておるうちにいつの間にか、こんなに心が育ったであろうかと言う様なおかげになって来る。
 その御神慮を対し御神慮に添い奉る生き方をさせて頂く為に、口では見易い事だけれども、なかなかの事ですけれども、お参りだけでも途切れがちになります所を、いわゆるほうれん草である。とにかく合楽通いが楽しゅうして、有難うなって来て、教えを頂く事が有難いなら、それを行じていく事が有難い楽しい事になっ来た時にです。そういう信心が続けられて行くところから、心は限りなく開けて行くでしょう。心は愈々高められて行くでしょう。しかも限りがないんです。
 今朝方お夢を頂いた。それは夕方それは広い広いというから海だろうと思うんです。また泉だったかも知れませんけれどもです。船を漕ぎ出して私と何人かの方達が乗ってるんです。そりゃ広い。所がどこまで行っても浅いんです。竿がこうやって立つ様に浅いんです。こりゃ船に乗らんで渡って行ったっちゃよかたいと言う様なお夢を頂いたです。今私が如何にも私の心が広うなった、深うなったと自分で思うて有難いと思うておるけれども、まぁだまぁだ神様の目からご覧になると、今朝方私がお夢頂いたそれこそ、膝の上まで位しか無いくらいな、浅い私であると言う事で御座います。
 あるここで熱心に信心をしておられます方が、丁度台所というか庭と台所が、こう続いております。その台所に腰掛けておられる。私もその台所に出てこらせて頂いたら、お縁がザクザクしよる。そしてジュルジュルしたごたる雑巾がそこに置いてある。しかも汚れた。それで私は腰かけておる御信者さんに対して、気の毒なと思うたからその雑巾を持って出よったら、また入口の方に汚い雑巾が二つ落ちてるから、その三つの雑巾を持ってすぐ裏にある小川でそれを洗いよった。
 一つの雑巾を洗い終わらせて頂いて二つ目になったら、上の方から誰かにくじの様に丁度村内の方達という感じで、何か上の汚い水をどうっと流してきたから、雑巾が洗われんごと汚くなったと言う様なお夢であった。何が何やらさっぱり解らないお夢であった。その湖の、その事も何が何やらさっぱりわからなかった。けれども今日の御理解を頂いて、御神慮を対すると言う事、御神慮がわかって御神慮に添うと言う事。それがお道の信心の、ぎりぎりのところだと。
 たったそれだけの事だけれども、御神慮に愈々添い奉ろうとするとです、実を言うたら、大変難しい事ばっかりなのだ。そこに日頃の御教えを頂かなきゃならん。そこを心行に頂いて行かなきゃならん。何というそういう汚い雑巾が、そこにジチャジチャするとが置いてあるという事は、どうして勝手の者は、ろくそうな事じゃうかというのではなくて、それは私のお家なのですから。
 私の信心が、もっとましになりゃ、私の末梢神経というものが、女中さんであろうが、そこに使われておる店員さんであろうがです。私の性格、私の心のままに動いて下さるだろうという事です。自分自身の汚さ心の狭さまた周囲から折角洗うとしておる。そこへ汚い水を流されると言う事は、そういう皮肉を言われたりされたりすると言う事は、上から流す人が悪いのじゃない。そう皮肉をされたりにくじをされたりする私自身が悪いのだ。そこで、愈々御神慮を深く広くもっと対して、もっと誰からでも愛される。
 私の周囲には、それこそ極楽のような素晴らしい清潔な感じの状態が、いつもそこに保たれておるといったような、おかげを頂く為には、もっともっと、私自身が御神慮を深く対しなければいかん、広くわからにゃいけん。そしてそれを取り組んで行かにゃならんという事だっただろうと、今日は、お話を聞いて頂き頂き、今朝の夢を思い出させて頂いて、そう思うのです。
 今何年前のお話を聞いて頂いて、その位には私の心もおかげを頂いとるけれども、まあだまあだという事なんです。限りがないのです。広さは広いけれども深さがない。そういう信心を深め広めして行く事の為に、私が元旦祭の洗い米がこぼれた時に、前の日にです、今年の御神米は寒修行に一月間お供えさせて頂いたものを、御神米にするぞと神様が言うて下さってないのを聞いたら、ああ今年の御神米は汚れてしもうたというて、それだけでも、心を汚したかもしれない。
 けども前もって神様がちゃんと教えておって下さる事が有難い。そしてそこに私の心の深さというか、広さをそこに感じさせて頂いたという事になるのです。だから信心させて頂いておると、その前後にですその稽古がし易いようにし易いように、いつも神様が心を使うておって下さるです。昨日一昨日の御理解でした。人を助けると言う事が有難いと。人を助けると言う事は、只お導きと言った様なのは、助ける手立てのお手伝いをさせて頂くのであって、本当に助けるというのじゃない。
 助けるというのは、本当にその人が助かると言う事が有難いと心得て、信心せよというのが、昨日一昨日の御理解でした。その中に人間だけではない、御霊様でも助けられるんだというお話を、田中さんの例話をもってお話ししましたね、霊祭の前後のこと。成程私と一緒に会食をしておられると言う事は、私と一緒に御霊様がままになっておられる。しかも家庭のお家騒動でも起ころうかと言った様な中にです。
 お祭りの済んだ幾日後には、御霊様が、娘さんの所に現れて、兄弟仲ようしてくれと言うて頼まれたという話でした。だから御霊様も助かる事が出来るという様なお話を致しました時にです。桜井先生が感じられた。本当に人間が力を受けたら、人間だけではない人間を助ける力だけではない。目に見えない御霊の世界の人達迄も救い助ける事が出来るんだという事を、真に有難い事だと思われた。そしたら、昨日、お夢を頂いたと言われるのです。お便所の中からむくむくと何かが、水がブツブツ言いよる。
 そしてそこからニュ-と手が出たち言う。あら今度はここに誰かが落ち込んでござるとじゃろうかと思うて、その手を引っ張った所が、何と骸骨だったと言うのです。もう気持ちの悪い気持ちの悪い。本当に気持ちの悪いお夢でしたとこう言うのです。それで私は福岡の教会におかげを頂いとる時分に、御普請が出来られました。その御普請の中心人物になって、それこそ自分の財産を打ち振るようにして御普請が出来た。
 そしてそこからお徳を受ける、おかげを受けるというのではなくて、そのまま信心まで途絶えてしもうた。次々とよくない事が起って来た。高橋さんという方です。私もよく知っております。だから私は高橋さんとは申しまけんでしたけれども。ああいう場合があるでしょうがと。いうならお便所と言う事は御結界。御結界の中で助かるのではなくて、反対にそういう苦しみを受けておるような人達が、お道の信者信奉者熱心と言われる様な人達の中にありはせんでしょうかねと言うお話でした。
 そしたら先生私も丁度ここに御神縁を頂かれて、早々の頃でしたが仕事がないから高橋さんの所に尋ねた所がある仕事をなさっておられた。だからそのお仕事のお手伝いをされる事になった。それから間もなく口頭癌か何か、癌で一二ケ月そこに勤められただけで亡くなられた。とても良い方でした。けれども信心のほうは、そんな風で途絶えた。考えてみますと、私があの時から繰ってみると、丁度今年は十年祭に当たりますという訳です。私はお知らせを頂いて。
 高橋さんと言うた訳じゃないけれども、そういう例がありましょうがと。本当に昨日こそ、私は、本当に御霊様でも助ける力と言う様なものが尊い有難いなぁと思うたら、早速神様がそういう働きを下さったというのです。実は家内も今朝からお夢を頂きましたという。たから家内は後からお参りをして、お届けをするでしょうと言うて、お届けを終わったんです。そしたら昨日は福岡の高橋さんが遅く参られました。
 二度目か三度目の御理解を頂かれて、桜井先生が帰ろうとされておる所に、高橋さんが見えたんです。そして先日からあちらの宅祭りの時に、桜井先生にすみませんけど御用に来て下さいと言うて、お願いしてから来て頂いとるとじゃけん、何かどげんかお礼せにゃいかんでしょうがとこう言う。いやそげな事してから桜井先生は、そげな事は考えとんなさらんじったんですよ お宅のお祭りを拝ませて頂くだけでも、やっぱり本当は、するがほんなこつでしょうねと、私は申しました。
それで高橋さんがです、帰りに丁度おられるもんですから、何がしかのお礼をなさった訳です。その後に今度は四時の御祈念に御夫婦で参って見えて、桜井先生の奥さんのお話を聞いたんです。今朝から、私も御霊様のそう言う事を色々頂いた。それこそ実にリアルなお夢でしたが、高橋さんからお包みを貰いよる。それが精進物のお包みのようであったり、お祝儀のようであったりといった様な、そして主人が今朝から頂いておるお夢と、あれとこれとを頂き合わせて夫婦で話合いました。
 とても今の私達では御霊様のお祭りてんなんてんち言う事は、とても出来んのでけれども、そういう思いを起こさせて頂いたら、今朝からのお夢私が頂いたお夢あんたが頂いたお夢、しかも今今朝帰りかけに高橋さんからこういうお礼を頂いておるから、是をこのまま高橋さんの御霊様その十年祭に当たるのだから、今日は四時の御祈念に併せて親先生に御霊様の御祭りを、形だけでもさせて頂こうというで話合って出て来た。
 色々とお供えを全部、とてもこれは私共が生活に使うのは勿体ないというので、お礼お届けやら、お供えのお金に全部使われた。そして思いがけない、昨日の御霊のお祭りがありましたがです。私が御神前で頂く事が骸骨に肉が出来て、血が通うようになったというお知らせを頂いたです。そして次には蒲の穂といのがありましょう。大黒様が因幡の白兎のとこに出てくる、赤裸に皮をむかれた白兎に教えられる、蒲の穂を敷いて休めと言われる蒲の穂です。その蒲の穂を沢山頂きました。
 それこそ永年の信心、そして御造営という時に、それこそ全財産を打ち振るようにして御用にさせて頂いたけれども、それによっておかげを落としてしもうて、信心もなくなっておったけれどもです。その徳というものはちゃっと現れていなかっただけであって、いうならば桜井先生が、そのきっかけを作られてそれも深い信心が解ったからである。この世で人が助かると言う事だけじゃない、成程親先生のお話を拝聴させて貰うと、形のないものまでも助かると言う事が。
 何と有難い事だろうと思わせて頂いて、解らせて頂いたら早速その働きになってきた。そこに高橋さん、桜井先生奥さんそして私とこの関係が何とも言えん、合楽で御理解頂きつけてない人が聞いたら、馬鹿んごたる話かも知れませんけれども、夢のような話かもしれませんけれども。私共はそういうお働きをいつも聞いたり、又自分で感じたりしておりますから、愈々信心を深めて行かなければならないと言う事に気がつくのです。今日は私は、ここには信心の稽古に来る所。
 信心が浅い心が汚い心が貧しい、狭い豊かさがないそれは限りない美しさ、麗しさ広さというか深さというものを求めていないからだと言う事。御神慮を対してという御神慮を御教えによって解らせて頂いたら、その御神慮にいよいよ添わせて頂こうという信心がなされなければならん。そういう稽古がなされなければ、そこにはおかげはわが家で受けよと言う様なおかげ。
 それにはいつもまめな時と言う事は、特別取り立ててお願いせんならん事もないけれどもという程しの時でなからなければ、本当の稽古は出来ないと言う。人間ですから痛ければ痛い痒ければ痒い、困った時にはやっぱり困る。その困った時に困ったことが先に出る。おかげを受けなければならん。そこから脱出させてもらいたいという願いの方が強うなるから、信心が疎かになる。いつもまめな時ここへ参ってと言う。平穏無事なんでもないという時にです。
 愈々信心の稽古をするならば、その信心の稽古が楽しゅう有難とうなる為にです、いうならば合楽通いが楽しくなる事の為に信心が好きになる。何とか工夫をして手立てをしなければいけない。それにはまず稽古から。そして好きでなかった信心、しようことなしに参りよった信心が、段々好きになって来て、ほうれん草のおかげを頂かせて貰うて、初めは春菊のような喜びとおかげの信心から、段々自分の心の中に、見事な菊の花の咲きほころんでゆくような信心の喜びに浸って行けれる。
 そこからの世界は限りがない。深さ広さにおいては限りがない。御神慮の深さというものは、私共は、とてもとてもわかる段の事ではないけれども、解っただけは自分のものにして行くという信心姿勢、修行の姿勢稽古の姿勢というものが出来てきた。ここへは信心の稽古をしに来る所とある。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけと仰るのですから。そういう稽古を愈々身につけて行かなければならんと言う事ですね。
   どうぞ。